大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

千葉地方裁判所 昭和54年(ワ)277号 判決 1988年3月02日

原告 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 遠藤誠

同 川中修一

同 北沢孜

同 北潟谷仁

同 佐々木正泰

同 島袋勝也

同 武田博孝

同 寺崎昭義

同 栃木義宏

同 永吉盛元

同 藤原周

同 町田正男

同 南木武輝

同 和島岩吉

同 渡辺正臣

同 渡邉千古

同 青木英五郎

同 伊東正勝

同 井上近夫

被告 千葉県

右代表者知事 沼田武

右訴訟代理人弁護士 石川泰三

同 岡田暢雄

同 髙橋省

同 今西一男

同 国生肇

同 吉岡桂輔

同 成田康彦

右指定代理人 内田了

<ほか三名>

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金五四〇万円及びこれに対する昭和五四年六月一日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  (当事者)

原告は、亡甲野一郎(以下「甲野一郎」という)の母である。

2  (甲野一郎が行方不明となるまでの行動)

(一) 甲野一郎は、昭和四五年四月日本大学芸術学部に入学後、学生運動(いわゆる革マル派系全学連)に参加するようになった。

昭和五〇年七月七日、東京都千代田区麹町所在の上智大学構内において、甲野一郎を含む革マル派系全学連グループを他集団が襲撃し、これに革マル派系全学連のグループが反撃し、双方に負傷者が出るという事件が発生した。

(二) 昭和五一年四月一七日、甲野一郎は右事件により兇器準備集合罪容疑で警視庁に逮捕され、同月二八日、同罪名で東京地方裁判所に起訴された。

右被告事件は、同地裁刑事第七部に係属し、甲野一郎は昭和五一年一〇月四日保釈された。

(三) 右被告事件については、次のとおりの理由から警察や上智大学当局者が予め事件発生を知っていたにもかかわらず意図的にこれを放置していたとの疑いが存在した。すなわち、右事件発生前から警視庁公安部所属の私服警察官が上智大学構内を徘徊していたり付近の清水谷公園に警察機動隊が待機していたこと、襲撃犯人について一人も逮捕されていないこと、さらには、予め事件の発生を察知して撮影の準備をしていなければ到底写せないであろう現場写真(革マル派系全学連の学生らが反撃しようとするその一瞬を鮮やかに写している)が、甲野一郎が事件現場にいたことを証明する唯一の証拠として、提出されたが、右写真の撮影者について、当時の上智大学副学長及び麹町警察署の警察官ら関係証人はこれを明らかにしなかったことなどである。

(四) 甲野一郎及び右被告事件の弁護団は、写真撮影者をつきとめるなどして同事件の真相を解明しようとしていた。ところが、同年一一月二一日、甲野一郎は下宿先の千葉県《番地省略》所在の甲田荘を出たまま突然行方不明となった。その後甲野一郎は日時場所等が不明であるが死亡している。

3  (警察官による不法行為)

(一) (市川署警察官の故意による行為)

(1) (遺骨等の引取要求)

千葉県警市川警察署(以下「市川署」という)刑事一課長田丸紘一警部(以下「田丸警部」という)らは、昭和五二年一月一七日ころ、原告及び甲野一郎の父である亡甲野太郎に対し、同月六日、千葉県市川市大洲三丁目二一番一〇号北越製紙株式会社市川工場裏の江戸川左岸で発見された死体(以下「本件死体」という)が甲野一郎と別人であることを知りながら、甲野一郎の死体といつわり、その遺骨等を引き取らせようとした。

(2) (戸籍の抹消)

田丸警部らは、本件死体が甲野一郎と別人であることを知りながら、かつ原告らがそのように主張しその遺骨等の引取りを拒否していることを知りながら、情を知らない市川市役所に対し、本件死体は甲野一郎であると虚偽の報告をし、昭和五二年二月一六日墨田区長をして甲野一郎の戸籍を抹消させた。

(二) (市川署警察官の行為の違法性)

(1) 本件死体は甲野一郎とは別人である。

ア 本件死体と甲野一郎の歯の治療痕は次のとおり相異しており、これを図示すると別紙図面(一)のとおりである。

a 甲野一郎にはなく、本件死体にあるもの

(ア) 本件死体では上右三番、上左三番及び四番の三本が全面を覆う金冠(いわゆる金歯)である。

甲野一郎には、全面に金を冠した歯(金歯)は一本もない。

(イ) 本件死体には上右六番、同八番を支台歯とした三本ブリッヂがある。

甲野一郎には右のようなブリッヂは存在しない。

(ウ) 本件死体には上左六番、下左五番ないし八番の各歯にサンプラ冠もしくはプラチナ冠が施されている。

甲野一郎には、サンプラ冠などの冠は一本もない。

b 甲野一郎にあって本件死体にないもの

(ア) 甲野一郎は、昭和四五年九月及び一〇月に、それぞれ乙山春夫歯科医師により上左五番及び上右六番に銀を充填されている。

本件死体には、銀を充填された歯は一本もない。

(イ) 甲野一郎は、昭和五〇年三月ころ、丙川夏夫歯科医師により、下左六番付近の歯を抜歯され、その両隣りの歯を支台歯にして金パラジウムのブリッヂを施されている。

本件死体の下左六番及びその付近の同五番、八番、九番はサンプラ冠であり、抜歯されておらずブリッヂではない。

(ウ) 甲野一郎は、昭和四五年に乙山歯科医師によって上右一番、二番及び上左一番を抜歯され、ついで丁原歯科医師により上右三番及び上左二番を支台歯とする非対称型の五本のブリッヂを施されている。

本件死体の前歯はブリッヂではなく、上左二番ないし上右二番の四本は天然歯であり、ぐらつくのを防止するため裏側で固定されているものにすぎない。

(エ) 甲野一郎の上左二番ないし上右一番の歯の裏側は別紙図面(二)のとおり全部の幅にわたって金が裏打ちされている。

本件死体の上左二番ないし上右四番の裏側の金は歯茎側に歯の三分の一ないし四分の一の程度の幅である。

イ 本件死体の指紋と甲野一郎の指紋の照合について

a 本件死体からの指紋採取及び照合の経過

(ア) 昭和五二年一月六日、本件死体の発見現場において市川署鑑識係筒井昌男巡査(以下「筒井巡査」という)が墨を指頭に塗り紙に押捺する方法を試みたが、指にインクが乗らず指紋採取ができなかった。

(イ) 同月七日、午前九時二〇分ころから同一一時五〇分ころにかけて市川市営火葬場の遺体安置所において、市川署鑑識係の安達朝貴巡査(以下「安達巡査」という)及び筒井巡査の両名が次のとおりの方法でシリコンラバーを用いて本件死体から指紋を採取した。

(a) 右手一回目

筒井巡査はシリコンラバーとカタリストを「立入禁止」のビニール板(以下「ビニール板」という)の上で竹べらで約一〇対一の割合で混合した。

本件死体右腕を枢と胸の間に挟んで指先が浮く状態にしたうえ、この手の平を自分の左手で持ち、右手にビニール板を持って死体の右手の甲を上にしたままビニール板の上に調合されているシリコンラバーを下から各指に押しつけた。そしてビニール板を直接指にこすりつける方法により拇指以外の四本の指は一度に塗り、拇指は独立して一本だけ塗った。

シリコンラバーが落ちないように二、三分の間ビニール板をシリコンラバーを塗布した指にあてがっていた。

固化させた後はがしたところ、水分と気泡が入ったためこれらは全部指紋採取としては失敗であった。

(b) 左手一回目

筒井、安達の両巡査は、次に、左手につき、前同様、拇指とその余の四指を別々に採取した。主として竹べらを使用し、最初は手の平を上に向けてシリコンラバーを上から指紋部分に塗り、ある程度粘りが出た段階で、今度は上下を逆にして手の指の甲側に上からシリコンラバーを塗りつけ全体を手袋状に被う形にした。

固化するまで待って袋状のまま指からはずし爪側を切って中を見ると示指を除き成功した。

(c) 右手二回目

筒井、安達の両巡査は、右手につき拇指を除く他の四指、拇指の順で、主に竹べらで各指につき手の平を上に向け指紋のある側にのみシリコンラバーを塗った。これは全部成功した。

(d) 左手二回目

筒井、安達両巡査は、左手示指につき(c)同様の方法でシリコンラバーを塗った。これは成功した。

(ウ) 筒井、安達両巡査は採取したシリコンラバー(以下、本件死体から指紋を採取した右シリコンラバーを「シリコンラバー(A)」という)を切り離すことなく、右手分と左手分に分けて市川署に持ち帰り、筒井巡査がはさみで一本づつ切り離し、各指毎に分けて袋に入れ、同署鑑識係のロッカー中に保管した。

(エ) 同月八日、午前九時ころ、右ロッカーからシリコンラバーを取り出し、筒井、石井憲一両巡査が千葉県警に持参した。

(オ) ところで、千葉県警刑事部鑑識課技術吏員小石佳彦(以下「小石吏員」という)は、(千葉県警が前記のシリコンラバーと同一のものであると称する)シリコンラバーにストリッパーブルーペイントを流し込んで指紋を採型し、それに墨を塗って指紋用紙に押捺して指紋を転写し、同月一七日、右転写した指紋を千葉県警本部鑑識課に保管してある生前の甲野一郎の指紋と照合した結果両者は一致したが、以下、小石吏員が指紋を採取したシリコンラバーを「シリコンラバー(B)」と称して、シリコンラバー(A)と同(B)とが同一の物か否かについて検討する。

b シリコンラバー(A)とシリコンラバー(B)とは別のものである。

(ア) シリコンラバー(B)は次のとおり合計一六本であった。

右手 拇指 二本(東京地方裁判所昭和五一年押第二〇一四号符号47、同48、以下単に「符号47」「符号48」といい同押収による他のシリコンラバーも同様に「符号0」という)

示指 二本(符号39、同40)

中指 二本(同41、同42)

環指 二本(同43、同44)

小指 二本(同45、同46)

左手 拇指 一本(同38)

示指 二本(同33、同34)

中指 一本(同35)

環指 一本(同36)

小指 一本(同37)

(イ) シリコンラバー(B)の形状における特徴は次のとおりである。

(a) 左手示指

① 符号33には、中央に約二ミリメートル×約四ミリメートルの気泡のあとがあり、さらにその周辺に三ないし四個の極小の気泡のあとがある。この程度の気泡のあとは、指紋の特徴を判定するのに支障がない。

② 符号34には指先に空気が入ったと思われる。指紋が全く転写されていず、黒く滑らかになってしまっている大きな部分が二か所ある。符号34では指紋の形状の特徴を判定することができない。

③ よって、符号33が成功分、符号34が失敗分と考えられる。

④ 符号33と符号35(左手中指)とは切断面が一致し、両者はつながっていたものが切断されたものである。

⑤ 符号34には切断面は存在せず、独立し採型されたものである。

(b) 左手中指

左手中指(符号35)の環指側にははさみによる切断面はなく、環指とつながっていたものが切断されたものではない。

(c) 左手環指

左手環指(符号36)の中指側には、はさみによる切断面はなく、中指とつながっていたものが切断されたものではない。

(d) 左手小指

左手小指(符号37)には、手の甲側のみに切断面があり、環指側にはない。甲側の切断面はシリコンラバーを開くために切ったもので、環指とつながっていたものを切り離したものではない。

(e) 右手示指

① 右手示指二本のうち、符号39が失敗、符号40が成功分である。

② 符号40には、切断面が全くなく、独立して採型されたものである。

③ 符号39には、右手中指の符号41、同42のいずれにも合致する切断面はなく、切断面の向き、切断面の面積、形状などから右手中指とつながっていたものを切り離したものではない。

(f) 右手中指

① 右手中指二本のうち、符号41が失敗分、符号42が成功分である。

② 符号42の示指側には切断面が全くなく、示指とつながっているものを切り離したものではない。

③ 符号41には、右手示指の符号39、同40のいずれにも合致する切断面はなく、切断面の向き、面積、形状からして、示指とつながったままで採型され、切り離されたものではない。

(g) 右手環指

① 右手環指二本のうち、符号44が失敗分、同43が成功分である。

② 符号44の切口面は手のひら側にあり、中指とつながっていたものを切断したものではない。

③ 符号43、同44とも小指の符号45、同46の切断面と合致する切断面はない。

(h) 右手小指

① 右手小指のうち、符号46が失敗分、同45が成功分である。

② 符号45、同46のいずれにも右手環指符号43、同44の切断面と合致する切断面はない。

(i) 当板の跡について

シリコンラバー(B)のいずれにも、シリコンラバーを固化させるときにあてたビニール板の跡はない。

(j) 凹凸模様の跡について

シリコンラバー(B)のうち、左手中指符号35の環指側、左手環指符号36の甲側、左手小指符号37の外側には、それぞれ細かい繊維状の凹凸模様(ギザギザ模様)がある。さらに、右環指の模様中には馬蹄形状(クリップ状)の模様がある。

(ウ) シリコンラバーの切り口について

(a) 前述((二)(1)イ(イ)(a)(b)(c)、(ウ))のとおり、シリコンラバー(A)のうち、筒井巡査が単独でとった右手一回目の四指分、安達、筒井両巡査が共同してとった左手一回目及び右手二回目の各四指分はいずれも四指つながったまま採取し、後にはさみで一指づつ切断したものである。

(b) そうすると、右各指のシリコンラバー(A)には、必ず隣合う指側にはさみによる切り口、少なくとも何らかの切断面があることになる。

(c) シリコンラバー(B)のうち、右手示指成功分(符号40)及び右手中指成功分(符号42)には、切り口が全くない。

(エ) 当て板の跡について

(a) 前述((二)(1)イa(イ)(a))のとおり、筒井巡査は、シリコンラバーが落ちないように二、三分間ビニール板をシリコンラバーを塗布した指にあてがっていた。

(b) 固化する前のシリコンラバーに表面が平滑な板を二、三分間押し当てていれば(あるいは、シリコンラバーを表面が平滑な板の上に乗せておけば)、シリコンラバーの性質上固化したシリコンラバーの板を当てがっていた部分が平滑になる。

(c) 前述((二)(1)イb(イ)(i))のとおり、シリコンラバー(B)のいずれにも指紋の側の表面が平滑になっているものがない。

(オ) 凹凸模様の跡について

(a) 前述((二)(1)イb(イ)(j))のとおり、シリコンラバー(B)には模様がある。

(b) これは、シリコンラバーは固化してから後に模様(形)がつくことはありえないので、シリコンラバーとカタリストが混ぜ合わされた後固化していく過程で、右のような模様のものがシリコンラバーに一定時間押し当てられていたことを示す。

(c) ところが、筒井、安達両巡査が本件死体から指紋を採取した過程(前述(二)(1)イa(イ))で右の模様の物がシリコンラバーに付着していたことを窺うことはできない。

c よって、シリコンラバー(B)を使っての本件死体と甲野一郎の指紋の照合の結果が一致したことをもって本件死体が甲野一郎であるとはいえない。

ウ 身体的特徴の相異

a 本件死体の写真を見た甲野一郎の両親、祖母、親類、知人、友人の全てが、本件死体は甲野一郎ではないと断言している。

b 検視した医師や見分に当った警察官らは、本件死体の年齢を三〇歳から三五歳と推定しているが甲野一郎は当時二六歳であった。

c 本件死体には、甲野一郎にはある頭部左側のハゲ、臑の火傷痕、胸骨の突起などの身体的特徴はない。

d 本件死体と甲野一郎とでは、額の頭毛のはえ際、眉毛の濃淡、もみあげの有無、耳の形状などにおいて顕著な相異がある。

(2) 市川署警察官の違法行為

ア シリコンラバー(指紋)のすりかえ

a 前述((二)(1)イ)のとおり、シリコンラバー(A)とシリコンラバー(B)とは別のものである。

b シリコンラバー(A)は、昭和五二年一月七日の採取後市川署鑑識係のロッカーに保管され、その後同月八日、千葉県警察本部に持参され、同年二月九日東京地裁刑事七部に任意提出されるまでの間千葉県警察本部で保管されていた。

c してみると、シリコンラバー(A)は、市川署ないし千葉県警察本部の保管・管理下においてシリコンラバー(B)とすりかえられたものであり、市川署警察官ないしは千葉県警察本部の警察官の関与によりなされたものである。

イ 身元不明死体処理手続の過誤

a 検視手続の過誤

(ア) 写真撮影等について

身元不明死体の検視にあたっては変死体の人相、歯形の形状、身体的特徴等の撮影及び記録を行ない、その後の身元調査等に支障をきたさないようにしなければならない(死体取扱規則第六条)。

しかるに、市川署警察官は、本件死体の全身を撮影したのみで、顔のクローズアップも横顔も撮影しなかった。このため本件死体の横顔の状況、耳の形状等が不明となり、顔写真による身元判定を不明ならしめた。更に、後頭部のハゲの有無、右大腿部の入墨の有無等の身体的特徴についても判定を困難にさせた。また、歯牙の形状の写真撮影を怠ったことにより、身元不明死体票記載の本件死体の歯の状況の真偽(見間違えの有無)が確認しえなくなった。

(イ) 血液型検査の無視

身元不明死体票には血液型の記載欄がある。このことは、身元不明変死体の検視にあたっては、警察官は、血液を採取するなどして、血液型の検査をする義務を有することを意味する。

しかるに、市川署警察官は、本件死体の血液の採取等をなさずに、着衣を断片化して洗濯し、血液、毛髪等血液型を知りうるものを残さずに遺体を焼却したため、血液型の特定が不可能となった。

(ウ) 着衣の断片化

本籍等の不明な死体について、警察官は、死体、着衣、所持品等を速やかに死亡地の市町村長に引き渡し、死体及び所持品引取書を作成する義務を負う(死体取扱規則九条二項)。右引渡しを受けた市町村長は、行旅病人の遺留物件を保管する義務を負っている(行旅病人及行旅死亡人取扱法一二条)。

しかるに、市川署警察官は、検視にあたって、本件死体の着衣を脱がせ、水洗いし、翌日には着衣を全て独断にて約一〇センチメートル四方に断片化したうえ、洗剤で洗濯し、右断片以外については焼却してしまった。これらの行為は、前記法令に違反する違法なものであることは明らかであり、右行為によって本件死体の身元の確認を故意に困難にさせたものである。

(エ) 死体の焼却について

行旅死亡人については、死亡報告を受けた市町村長は、死亡後二四時間経過後に火葬に付することができる(墓地埋葬等に関する法律三条)。

右規定は、病人等死亡時間の明確な場合の規定であり、死亡後二四時間経過させることによって死を確認するためのもので、本件のように死亡時間も明瞭でなく、身元も不明なときには、通常死体発見後二四時間経過後に、場合によっては数日後に火葬がなされているのが実情である。

しかるに、本件においては、死体発見後二四時間も経過していない昭和五二年一月七日午後零時三〇分に火葬がなされている。これは運用の実態を全く無視した違法、不当なものである。このような違法不当な行為を市川署警察官があえてなしたのは、本件死体が甲野一郎でないことを知っていたからこそ、「甲野一郎の死体」として処理するために、市川署警察官が通常な手続をとらずに早急な死体火葬の挙に出たものと推認される。

なお、火葬許可に際しては、死亡診断書又は死体検案書が添付されるのであるが、本件では死体検案書は何ら付されていない。

b 犯罪捜査の過誤

(ア) 死体解剖の懈怠

警察官は、変死体又は変死の疑いのある死体があるときは、検視をなし、かつ死因を明らかにするため、「司法解剖」をなすべき義務を負っている(刑事訴訟法二二九条、二二二条、二一八条、二二〇条、一二九条)。また、死体が犯罪に起因するものでないことが明白な場合であっても、死体の見分を行い、必要な場合には「行政解剖」を行うこととされている(死体取扱規則九条、死体解剖保存法八条)。

本件死体は、ブロック片(重さ二・五キログラム)を針金で巻いて首から吊り、その針金に巻きつけたビニールひもで両手首を縛っていた状態である。このように変死体が異常な場合には、自殺を装った他殺体の疑いをもって捜査をなすべきである。更に、死因についても、溺死かあるいは薬物等による可能性等も解剖等をなさない限り確定しえないのである。

しかるに市川署警察官は、死体解剖をなそうともせず、自殺として本件死体を処理したものであり、その行為は、違法、不当である。

(イ) 遺留品の損傷

警察官は、変死体に他殺の疑いの存するときには、変死体の着衣、所持品等の遺留品について、付着物等の鑑識のため、現状のまま保存しなければ適正な捜査がなしえない。

仮に、他殺の疑いのないときにおいても、身元不明死体については、自殺の原因及び方法、教唆者・幇助者等の有無を調査すべき義務を負っている(検視規則六条一項八号)。

しかるに、市川署警察官は、前述(a(ウ))のとおり本件死体の着衣等を脱がして洗濯したうえ、断片化して、更に洗濯等をなした。右行為は、前記規則に違反する違法な行為であるのみならず、市川署警察官は、本件死体を自殺体として処理することにより、後に他殺の疑いに基づく捜査の際に証拠となりうるものを一切処分しようとはかったものであると言わざるをえない。

(ウ) 甲野一郎の歯の治療にかかるカルテの焼却

市川署警察官は、歯科医師乙山春夫をして甲野一郎の歯の治療にかかるカルテを焼却せしめた。これは証拠隠滅行為であって違法である。

ウ 戸籍抹消手続の過誤

戸籍法上、死亡届出義務は本来、同居の親族、その他の同居者である(同法八七条)が、同法九二条一項及び二項によると、「死亡者の本籍が明らかでない場合又は死亡者を認識することができない場合」には、警察官は検視調書を作成し、これを添付して、死亡地の市町村長に死亡の報告をなし、「死亡者の本籍が明らかになり、又は死亡者を認識することができるに至ったとき」は、追完の報告をなし戸籍に記載することとなっている。

しかし、右の「死亡者を認識することができるに至ったとき」とは、客観的かつ合理的な判定が関係当事者の間においてなされたときと解されるべきであり、少なくとも、「死亡者の確認」について警察と親族等の間において見解の異なるときには、同条二項の追完はなされるべきではない。

本件において、市川署は本件死体を甲野一郎と断定していたものの、甲野一郎の母である原告及び父である亡甲野太郎は、一貫して本件死体が甲野一郎であることを否定し、遺骨及び遺留品の引取りを拒否しており、他方、東京地方裁判所では、本件死体が甲野一郎であるか否かについて判断するため事実審理を開始し、昭和五二年二月五日、市川署は右審理に要する証拠書類等を任意に提出している。右のような事情の下においては、警察は少なくとも、右審理において裁判所の判断がなされるまで追完報告を差し控えるべきである。

しかるに、田丸警部は、原告ら両親の意向を全く無視し、裁判所の判断をまつこともなく独断で死亡判明書を市川市長に提出し、甲野一郎の戸籍抹消手続をなさしめた。右行為は違法であり、市川署警察官らは、本件死体が甲野一郎でないことを熟知しながら、これを甲野一郎の死体として処理せんとして、同人の戸籍を抹消せしめたものと言わざるを得ない。

4  (被告の責任原因)

原告に対し、本件不法行為をなした警察官らは、いずれも千葉県の公務員であり、右各行為は右警察官らの公権力の行使としてなされたものであるから、被告は、国家賠償法一条一項により、本件行為によって原告の被った損害を賠償する責任がある。

5  (損害)

原告及び甲野一郎の父亡甲野太郎は、市川署警察官らによる本件不法行為によって、著しい精神的苦痛を受けた。

亡甲野太郎は、元来病気がちであったが、本件以降病床につくことが多くなり、昭和五三年六月二四日には入院せざるを得なくなり、同年八月一六日には死亡するに至った。国民の生命・身体・財産を守るべき責務を有する警察官らによってなされた本件のような異常な行為が、高齢で病弱な同人にとっていかに深い精神的・肉体的苦痛を与えたかは計り知れず、またこのようにして夫をなくした原告の精神的苦痛も甚大である。

原告の精神的苦痛を慰謝する慰謝料額は、少なくとも金五〇〇万円を下らない。また、原告は、本件請求にあたり、原告訴訟代理人に本訴訟の代理を委任し、着手金として金四〇万円を支払う旨約した。

6  よって、原告は、被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、右損害合計金五四〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五四年六月一日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うことを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1及び2の各事実は不知。但し甲野一郎が死亡していることは認める。

2  同3(一)について

(1)のうち、本件死体が甲野一郎と別人であることを知りながら本件死体を甲野一郎とみせかけた事実は否認し、その余は認める。

(2)のうち、本件死体と甲野一郎が別人であることを知っていたとの点及び市川市役所に対し本件死体が甲野一郎であると虚偽の報告をしたとの点は否認し、その余は認める。

3  同3(二)(1)

冒頭の事実は否認する。

アaのうち、本件死体にあるものは認め(ただし(ア)の上右三番、上左三番については金冠とあるのは、金冠あるいは、金が歯の裏側は全面に、表側は額縁状に被せてあり、見る角度によれば金冠と見誤るような形状であり、(ウ)の上左六番とあるのは上左六番あるいは同五番である。)、甲野一郎については否認する。

アbのうち、甲野一郎にあるものは不知、本件死体については、(ア)及び(ア)は認め(ただし(イ)については、ブリッヂではない点については不知)、(ウ)は否認、(エ)は不知。

イaのうち、シリコンラバーが落ちないように、二、三分間ビニール板をシリコンラバーを塗布した指にあてがっていた点((イ)(a))は否認し、その余は認める。

イbのうち、冒頭の事実は否認する。(ア)の事実は認める。(イ)(a)のうち、①の第一文、④及び⑤は認め、①の第二文②は不知、③は争う。(イ)(b)のうち、左手中指(符号35)の環指側に、はさみによる切断面がない点は不知、その余は争う。(イ)(c)のうち、左手環指(符号36)の中指側に、はさみによる切断面がない点は不知、その余は争う。(イ)(d)の第一文は不知、第二文は争う。(イ)(e)のうち、①及び②は否認し、③のうち、符号39には、右手中指の符号41、同42のいずれにも合致する切断面がない点は不知、その余は争う。(イ)(f)のうち、①及び②は否認し、③のうち、符号41には、右手示指の符号39、同40のいずれにも合致する切断面がない点は認め、その余は争う。(イ)(g)のうち、①、②及び③のうち、符号43に同45の切断面と合致する切断面がない点は否認し、その余は認める。(イ)(h)のうち、①及び②のうち、符号45に同43の切断面と合致する切断面がない点は否認し、その余は認める。(イ)(i)及び(イ)(j)は不知。(ウ)のうち、(a)は認め、(b)は不知、(c)は否認する。(エ)のうち、(a)は否認、(b)及び(c)は不知。(オ)のうち、(a)は不知、(b)及び(c)は争う。

イcは争う。

ウaは不知。

ウbは認める。

ウcのうち、ハゲがない点は否認し、その余は不知。

ウdは不知。

4  同3(二)(2)

アaは否認する。

アbは認める。

アcは否認する。

イは争う。

ウは争う。

5  同4及び5は争う。

三  被告の主張

1  本件死体と甲野一郎の同一性

(一) 歯の治療痕について

本件死体と甲野一郎の歯の治療痕は、いずれも次のとおりであり、一致する。

(1) 上右三番から上左二番(あるいは三番)までは金ブリッヂである。支台歯は、上右三番と上左二番(あるいは上右三番と上左二番及び三番)である。上右二番から上左二番までの形状は、表面が一見自然歯によく似た義歯で、裏側は帯状の金により左右の支台歯までつなげて裏打ちされている。上右三番と上左三番の支台歯は、いずれも金冠、あるいは、金が歯の裏側は全面に、表側は額縁状に被せてあり、見る角度によれば金冠と見誤るような形状である。

(2) 上右六番ないし八番は、ブリッヂである。但し、材質は不明。

(3) 上左四番は、金冠である。

(4) 上左六番、あるいは五番は、サンプラ冠である。

(5) 下左五番ないし八番は、サンプラ冠である。八番は上部だけ被っている。

(二) 指紋について

(1) シリコンラバー(B)の切り口について

原告主張の右手示指(符号40)及び右手中指(符号42)には、双方に切断面らしきものが僅かに存している。双方ともそのような形状であることは、同時に採証されたことの証左となる。

(2) 当て板の跡について

筒井巡査は、右手一回目の指紋採取の際、シリコンラバーが完全に固型になってビニール板の跡がつくまでビニール板を押し当てていたわけではない。筒井巡査がビニール板を下から押し当てていたのは、あくまでシリコンラバーが垂れ落ちないようにするためであった。しかも同巡査は、指の他の塗り足りない部分にシリコンラバーを塗りつける作業が残っているため、シリコンラバーが完全に固化するまで押えておくことはできず、まだ指紋採取が可能な段階でビニール板を押し当てる作業から次の作業に移ったものである。この段階では、シリコンラバーはビニール板の跡がつく程には固化していなかった。筒井巡査は、シリコンラバーが垂れ落ちない程度に粘りが出た後で、さらに指の側面の指紋をとるためにビニール板の角で指と指の間にシリコンラバーを押し込み、また、ビニール板を刷毛のように使用してシリコンラバーを塗りつけたりしていた。

したがって、ビニール板をシリコンラバーが固化するまで押し当てていたことを前提とする原告の主張は根拠がない。

(3) 凹凸模様の跡について

原告主張の凹凸模様(ギザギザ模様)等の模様は、あまり定かなものではない。

仮に存するとしても、何らかの原因で右模様がつくことは、ありえないわけではない。

(三) 本件死体と甲野一郎の身体的特徴の一致

(1) 身長について

本件死体の身長は一・六六メートルであり、甲野一郎の身長と一致する。

(2) 体格・足の大きさについて

本件死体の体格、足の大きさは、甲野一郎と一致する。

(3) 盲腸手術痕について

本件死体には、長さ四・五センチメートル、幅約一センチメートルの盲腸の手術痕があるが、甲野一郎も小学校六年生のときに盲腸の手術をしており、その痕はぐちゃぐちゃしたような、色がちょっと濃いような感じになって後々まで大きく残っており、本件死体の手術痕と一致する。

(4) 顔面の黒子について

甲野一郎には、左目下一・五センチメートルの辺りに大きさが五ミリメートル未満の黒子がある。本件死体の顔写真には、ほぼ同位置に黒点が認められ、本件死体にも甲野一郎と同様の黒子があったといえる。

(四) 本件死体の着衣及び所持品について

(1) 本件死体の着衣は、①濃紺のコート、②グレーの背広上下、③黒色毛糸のチョッキ、④クリーム色地クサリ模様入りの長袖シャツ、⑤白メリヤス半袖シャツ、⑥白メリヤス七分ももひき、⑦白色パンツ、⑧茶色短靴(二五センチメートル)、⑨黒色靴下及び⑩右手に黒色皮手袋であるが、右のうち、①ないし⑨は甲野一郎が所有し、日常着用していたものである。

(2) 本件死体の所持品は、①セイコー製腕時計、②紺地にオレンジ色格子模様ネクタイ、③茶色のクシ在中の黒色ビニール製クシ入れ、④茶色ビニール表紙メモ帳、⑤オレンジ色ガスライター、⑥鍵一個、⑦黒皮二つ折り定期入れ、⑧地下鉄路線図一枚、⑨現金六三一五円、及び⑩白ボールペンであるが、右は全て甲野一郎が所持していたものであり、とりわけ①ないし③並びに⑦及び⑧は、原告が甲野一郎の所持品であることを確認している。

(五) 以上のとおり、本件死体が甲野一郎であることは明らかである。

2  遺体処理、遺骨の引取り及び除籍手続の適法性

市川署の田丸警部らは、指紋照合の結果、本件死体が甲野一郎であったのでその後の手続を進めたもので、その手続には、何らの違法はない。

(一) 検視手続について

(1) 死体取扱規則六条の規定する見分事項は、「……等」との記載からも明らかなごとく例示列挙であり、常に同条の挙げる全ての見分事項につき見分を尽し、それを撮影し、及び記録を要求しているものではなく、身元の判明に必要な範囲で特徴点を見分するところにその趣旨がある。

市川署警察官が行った見分は、身長・体格・着衣・盲腸手術痕・顔の黒子・所持品、そして指紋等であるが、指紋から身元が判明しているところからしても、必要にして十分な見分が行われたことは明らかで、何らの違法性を有するものではない。

(2) 着衣の断片化は、保管上の便宜のためである。同時に、焼却により身元判明に困難をきたすことのない必要な範囲で着衣の断片を保管していたものである。

(3) 本件死体は、死後二四時間を経ていることは明らかであった。したがって、死体発見後二四時間経過前に火葬に付したとしても、違法ということはない。また、火葬許可に際しては、市川署は戸籍法九二条一項及び死体取扱規則九条一項に基づき、市川市長宛に伊藤総明作成の死体見分調書を添えて死亡報告をしたものであり、そこに何らの違法はない。

(二) 犯罪捜査の過誤について

本件死体は、溺死の形態を呈しており、縛り目部分は表皮が剥離して生活反応が現われ、着衣に乱れなく、薬物を飲んだ形跡もないうえ、手の縛り方もゆるやかであるなどの所見がみられ、自殺体と断定できたものであり、「司法解剖」の義務はなく、また「行政解剖」の必要も認めなかったものである。

また、市川署警察官は、検視にあたり、検視規則六条一項に定める調査義務を尽している。

(三) 戸籍抹消について

市川署は、昭和五二年一月一七日、小石吏員から本件死体から採取した指紋が甲野一郎の指紋と一致する旨の連絡をうけた。田丸警部は、死亡者の身元を確認できるに至ったところから市川市長宛に戸籍法九二条二項・死体取扱規則九条三項に従い報告したものであり、右報告に何らの違法はない。

第三証拠《省略》

理由

一  本件死体が甲野一郎とは別人であるか否か(請求原因3(二)(1))につき判断する。

1  請求原因3(二)(1)イa記載の「本件死体からの指紋採取及び照合の経過」における事実中、シリコンラバー(B)を用いて転写された指紋と、千葉県警察本部鑑識課に保管してある生前の甲野一郎の指紋とを照合した結果、両者が一致したこと、及びその余の事実についても、筒井巡査が本件死体から右手一回目の指紋を採取する際、シリコンラバーが落ちないように二、三分の間ビニール板をシリコンラバーを塗布した指にあてがっていた点を除き、すべて当事者間に争いがない。

2  そこで、シリコンラバー(A)とシリコンラバー(B)が別のものであるか否かにつき判断する。

(一)  シリコンラバーの切り口について

(1) シリコンラバー(A)のうち、筒井巡査が単独で採った右手一回目の四指分、安達、筒井両巡査が共同してとった左手一回目及び右手二回目の各四指分はいずれも四指つながったまま採取し、後にはさみで一指ずつ切断したものであることは当事者間に争いがない。

(2) そうすると、右各指のシリコンラバー(A)には、必ず隣り合う指側にはさみによる切り口、少なくとも何らかの切断面があることになることは、論理的には原告主張のとおりである。

ただ、《証拠省略》によれば、シリコンラバーは、指紋の採取という目的に向け中心部を重点的に残すように切断したり削ったりするのであり、中心部の転写が可能となること以外の事柄には注意を払わず、その結果、隣り合う指同士の切り口が一致する形で残る場合もあれば、そうでない場合もあり、時によってはちぎったりすることもあり、小石吏員の方法も、同証人とほぼ同じであることが認められ、してみると、シリコンラバー(A)においても各指の接合面積の多寡、各指の重さなり具合及び切断の方法により、切断面の形状、位置及び大きさ等に様々なものがありうることが推認される。

(3) 原告は、シリコンラバー(B)のうち、符号40(右手示指)及び同42(同中指)には切り口が全くない旨主張し、成立に争いのない甲第二六号証の二(鑑定書)は、同40と同42には隣り合う面に切断面がない旨の所見を示す。

しかし、成立に争いのない乙第一一号証によれば、符号40の中指側には切断面らしきものがあることが認められ、成立に争いのない乙第六、第七号証によれば符号42には両側に切り口があることが認められ、成立に争いのない乙第六三号証によれば、符号40、同42の双方には切断面らしきものが僅かに存していることが認められる。乙第一一号証、六号証、七号証がいずれも証人尋問調書であり、直接法廷でシリコンラバー(B)の現物をみた折の証言であること及び乙第六三号証がシリコンラバー(B)の現物を直接見た裁判所の決定であることに鑑みれば、符号40及び同42には切断面があると判断するのが相当である。

(4) よって、シリコンラバー(B)のうち、符号40及び同42には切断面がないからシリコンラバー(A)とシリコンラバー(B)とは異なる旨の原告の主張は失当であり、同旨の見解を示す前掲甲第二六号の二(鑑定書)の所見は採用できない。

(二)  当て板の跡について

(1) 原告は、筒井巡査が本件死体から右手一回目の指紋を採取する際シリコンラバーが落ちないように二、三分間ビニール板をシリコンラバーを塗布した指に当てがっていた旨主張する。

(2) かりに、右のとおりとすれば、シリコンラバーの性質上固化したシリコンラバーの板を当てがっていた部分が平滑になることも十分考えうるところである。

(3) しかし、《証拠省略》及び証人筒井昌男の証言によれば、同人は、指にシリコンラバーを塗ってから、その下からビニール板を押し当てていたことはなく、シリコンラバーを塗ったビニール板を指に当てたのは指に塗り初めと、爪側に塗ったときのみであり(ビニール板にシリコンラバーを塗り、その上に指を当てて、シリコンラバーが指全体と爪の方まで覆うようにビニール板を前後させてこすり付けるようにした)、それ以外は、シリコンラバーが軟かいものなので、ビニール板をいわば刷毛のように利用してビニール板に塗ったシリコンラバーを指に手早く塗り付け、塗り終わった後にシリコンラバーが垂れ落ちないように本件死体の右手の四指を内側に丸めるようにして同人の右手で包むように、二、三分の間押えていたことが認められる。

(4) してみると、筒井巡査がビニール板を押し当てていたことを前提とする、シリコンラバー(B)のいずれにも指紋の側の表面が平滑になっているものがないのでシリコンラバー(A)とシリコンラバー(B)とは異なる旨の原告の主張は、理由がない。

(三)  凹凸模様の跡について

(1) 《証拠省略》によれば、シリコンラバー(B)のうち、符号35、同36、同37には細かい繊維状の凹凸模様があり、さらに符号36には馬蹄形状の模様もあることが認められる。

(2) 原告主張のとおりシリコンラバーは固化してから後に模様がつくことはまずありえないので、固化していく過程で右のような模様のものが一定時間押し当てられていた可能性が強いこともシリコンラバーの性質上当然認められる。

(3) しかし、本件全証拠によっても、右模様が何の模様であるかは定かでなく、したがって固化の過程以外で右模様が付いた可能性も否定し得ないし(したがって、原告主張の如くシリコンラバーが固化した後に右のような模様が付くことはあり得ないと断定することはできない。)、また、原告主張の如く筒井、安達両巡査が本件死体から指紋を採取した全過程を通じて、右のような模様の物がシリコンラバーに押し当てられていなかったことを認めるに足りる証拠もない。

(4) したがって、シリコンラバー(B)のうち符号35、同36、同37に認められる前記模様の存在をもってシリコンラバー(B)がシリコンラバー(A)と異なる旨の原告の主張は採用し得ない。

(四)  以上のとおりであって、原告がシリコンラバー(A)とシリコンラバー(B)が別異のものである根拠として挙げる主張(請求原因3(二)(1)イb(ウ)ないし(オ))はいずれも理由がない。

3  シリコンラバー(A)とシリコンラバー(B)のすりかえの有無につき判断する。

(一)  原告は、シリコンラバー(A)と同(B)とが別のものであることを前提とし、シリコンラバー(A)は、市川署ないし千葉県警察本部の保管、管理下においてシリコンラバー(B)とすりかえられた旨主張する(請求原因3(二)(2)ア)。

しかしながら、前示のとおり、シリコンラバー(A)と同(B)とが別のものであるとする原告の主張は全く理由がないので、右両者が別物であることを前提とし、右両者がすりかえられたとする原告の主張は、前提を欠き、その余の点について判断するまでもなく失当である。

(二)  以下、念のため、すりかえの主張についても検討を加えておくに、

(1) 《証拠省略》によれば、昭和五二年一月七日に採取したシリコンラバー(A)を筒井巡査が一本ずつ切り離した後、各指毎に分けて茶封筒に入れ、市川署の鑑識係のロッカー内に保管した時間は、同日午後二時ころであることが認められ、また、右ロッカーからシリコンラバーを取り出した時間が同月八日午前九時ころであることは当事者間に争いがないので、市川署でのすりかえ可能時間は、同月七日午後二時から同月八日午前九時の間ということになる。

(2) 《証拠省略》によれば、小石吏員がシリコンラバーからストリッパブルペイントを用いて指紋の採型作業を行ったのが同月一三日であることが認められるから、千葉県警察本部でのすたかえ可能時間は、小石吏員が筒井巡査らからシリコンラバーを受けとった後から右作業に着手するまでの約五日の間ということになる。

(3) ところで、シリコンラバー(B)(計一六個)の形状等については、《証拠省略》によれば、左手示指及び右手四指につき失敗分が存し、転写された指紋から指の状態を判断するに、左小指以外は照合に骨が折れる程度の鮮明度しかなく、左手分は黒インクでも可能であろうが、右手分は漂母皮化していて相当不鮮明のもので黒インクでは指からの採取は極めて困難であることが認められ、《証拠省略》によれば、シリコンラバー(B)から転写された指紋の左右の違いは明白で、右手各指の指紋は漂母皮化したでこぼこの形状であることが認められる。そして、右の事実と、《証拠省略》により認められる、本件死体は昭和五二年一月六日午後一時一五分ころ、小学生により江戸川に浮いているところを発見されたものであること、死亡推定時刻は、右発見時より一週間ないし一〇日前であること、右死体の左手は表皮が剥離していたが、右手には黒皮の手袋をしていたため表皮は剥離していなかったが漂母皮化していたこと、及び筒井、安達両巡査が、同月六日は両手から同月七日は右手から黒インクによる指紋採取を試みたが、右手は漂母皮化のため、左手は脂肪分等の体液が出ていたため、黒インクが指にのらず指紋採取が不可能であったこと等の各事実、並びに、本件死体からの指紋採取及び照合の経過(請求原因3(二)(1)イa)中の当事者間に争いのない事実及び前認定(2(二)(3))の事実との間には、極めて密接不離な、いわば原因と結果との関係にも対比しうるような自然かつ明白な対応関係があることが認められる。

(4) かりに、本件死体が甲野一郎ではなく、かつ、シリコンラバー(B)が甲野一郎から採取されたものとするならば、甲野一郎の指を本件死体と同様の状況に作為的に置くことが必要不可欠の条件となるが、これはおよそ想定し得ないことと言わなければならず、さらに前示(1)及び(2)の時間内に右の状況を作出しシリコンラバー(B)を採取することはおよそ不可能である。

(5) 《証拠省略》によれば、筒井巡査が昭和五二年一月七日に市川署の鑑識係のロッカーに入れたシリコンラバーを翌八日に取り出したとき茶封筒の位置に変化が見られなかった事実が認められ、《証拠省略》によれば、シリコンラバー(B)につき、小石吏員は同月八日に筒井巡査らから受け取ったものと同一であるとの覚えがある事実が認められるが、これに前記(3)認定の事実を総合すれば、シリコンラバー(A)とシリコンラバー(B)との同一性につき、合理的な疑いをさしはさむ余地はない。

(6) 筒井巡査ないし小石吏員本人がシリコンラバーをすりかえたこと、ないしはすりかえに加担したことを認めるに足りる証拠はなく、他に原告主張のすりかえを認めるに足りる証拠はない。

4  右のとおり、本件死体から採取したシリコンラバー(A)はシリコンラバー(B)と同一であり、かつ前記のとおりシリコンラバー(B)から転写された指紋と甲野一郎の生前の指紋が一致することにより、本件死体は甲野一郎であることが認められる。その余に原告が主張する本件死体と甲野一郎の歯の治療痕の異同、身体的特徴については、成立について争いのない乙第六三号証(東京地方裁判所昭和五一年(刑わ)第一八一六号決定書)によって、前者につき本件死体と甲野一郎の歯の治療痕は酷似していること、後者につき身長、体格と足、盲腸の手術痕、顔の黒子の存在のいずれの点においても本件死体と甲野一郎の身体的特徴が一致していることの判断が示されており、本件死体の写真を見た原告ら両親、親族らが甲野一郎でないと述べていること(原告本人も当裁判所で同旨の供述をしている)、検視医らに本件死体の年令が甲野一郎の年令より高く見えたこと、本件死体には甲野一郎にある頭部のハゲ等の身体的特徴がないことについても、本件死体が水死体で発見されて身体の表皮が一部剥離し、かつ腐敗するなど外観が変わっている状況にあったので、甲野一郎の身体的特徴について多少の齟齬があっても止むを得ないことであって、右をもって本件死体が甲野一郎でない証左となるものでないと判示されており、当裁判所に顕出された証拠によっては同じ結論とならざるを得ないが、更に当裁判所において右判示を否定するほどの新たな証拠は提出されていないので、原告の前記主張をもって前記認定を覆すことはできない。そして、原告の主張する被告の責任は、本件死体が甲野一郎でないことを前提とするものであるところ、その前提を欠くと言うべきである。

二  してみれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の被告に対する本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 上村多平 裁判官 増山宏 鈴木信行)

<以下省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例